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東京高等裁判所 昭和35年(う)1002号 判決 1960年10月31日

控訴人 原審検察官

被告人 柳原兼作 外三名

検察官 坂本杢次

主文

本件控訴は、いずれもこれを棄却する。

理由

本件各控訴の趣意は、末尾に添えた東京地方検察庁検事正代理検事岡崎格作成名義の控訴趣意書と題する書面記載のとおりであり、これに対する各答弁は、末尾に添えた被告人柳原兼作、同田村忠義、同武井実の弁護人中村信敏、同北村彌之助共同作成にかかる答弁書と題する書面、被告人安井謙の弁護人大竹武七郎作成名義の答弁書と題する書面、同被告人の弁護人大川光三作成名義の答弁書と題する書面並びに同被告人の弁護人向江璋悦、同安田義明共同作成にかかる答弁書及び答弁補充書と各題する書面記載のとおりであつて、当裁判所は、検事の請求により、事実の取調として、

検事に対する

(一)原田俊一郎の昭和三十三年八月十五日付供述調書

(二)森田重雄の同年七月二十六日付供述調書中第七項及び第八項、

(三)両角宗武の同月二十八日付供述調書中第七項乃至第十項、

(四)三浦純の同月二十六日付供述調書中第三項乃至第六項

(五)小池保の同月二十二日付、同月二十三日付及び同月二十九日付各供述調書(いずれも刑事訴訟法第三百二十八条所定の証拠として提出)

を、各取り調べ、森内重雄、両角宗武、三浦純及び小池保を、それぞれ証人として尋問した上、右各控訴の趣意に対し、次のとおり判断する。

第一点(法令適用の誤)について

所論の要旨は、原判示日本議会新聞号外と題する文書(以下単に本件号外と略称する)は、公職選挙法(以下単に法と略称する)第百四十八条第一項所定の選挙に関する報道及び評論を掲載した新聞紙ではなく、法第百四十二条の法定外文書と認むべきであるから、被告人柳原、同田村、同武井ら三名の右号外頒布の所為については、当然法第百四十二条、第二百四十三条第三号、第百二十九条、第二百三十九条第一号を各適用すべきにかかわらず、これらの各規定を適用せず、法第百四十八条第二項、第二百四十三条第六号により処断し、もつて右被告人ら三名の行為が法定外文書の頒布禁止及び事前運動禁止の各制限に違反するという主位的訴因を排斥した原判決には、前記各規定とくに法第百四十八条の解釈適用を誤つた違法があり、その誤は判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。

そこで、原判決を見ると、原判決は、その主位的訴因を排斥した理由中において、所論(一)乃至(五)に掲げられているように、法第百四十八条第一項にいう新聞紙とは、特定の人又は団体により一定の題号を付して比較的短かい間隔、たとえば日刊、週刊、旬刊等の形で反覆して発行され、不特定又は多数の人に有償で頒布され、あらゆる社会的問題について事実を知らせる「報道」及びこれらの事実についてその背景、解釈、意見等を伝える「評論」をその主要な内容とするのを通常とする文書であると解した上、客観的に「報道」及び「評論」を掲載した「新聞紙」の形式を備えていると見られる文書については、たといそれが実質的に当選目当の宣伝文書であると推測される場合でも、法第百四十八条第一項本文の適用を否定することは妥当でないとし、ある文書又はその記載内容が法第百四十八条第一項にいう「新聞紙」又は「報道」及び「評論」にあたるかどうかは、あくまで問題の文書自体を客観的に観察して判断すべきであつてその文書がどういう意図あるいは目的で作成、発行、頒布されたかを右の判断の基準とすることは許されない、作成、発行、頒布にあたつた者の主観が異なることによつて同様の内容の文書が「新聞紙」あるいは「報道」及び「評論」にあたつたり、あたらなかつたりすることは、不合理であるばかりでなく、憲法の保障する「表現の自由」を危うくするおそれがある、いわゆる「号外」名義の文書については、その文書が「新聞紙」の定義に合致する「新聞紙」の発行者によつてその新聞紙と同一の題号を用いて発行され、かつ社会通念上新聞紙と認められる体裁を備えたものであれば、法第百四十八条第一項の保護を受ける「新聞紙」に該当するのであつて、これ以上の実質的要件を要求することは、新聞納の概念をあいまいにし法の趣旨に反するに至るのである。それ故、いわゆる「号外」の頒布方法が「新聞紙」の通常の頒布方法と異なること、無償で頒布されたこと、発行者が特定の候補者に当選を得させる目的をもつていたこと、その発行部数の多いこと、「号外」の要求する速報性や必要性に欠けていること等「号外」発行に関する各事情は、「号外」の新聞紙性を否定する根拠にはならない旨判示した上、本件「号外」をもつて法第百四十八条第一項本文所定の「新聞紙」であり、その内容も「選挙に関する報道及び評論」にあたるものと認定していることは、所論のとおりである。

よつて、新聞紙並びに報道及び評論の意義について判断した上、本件号外が新聞紙にあたるかどうか、また、その記載内容が報道及び評論にあたるかどうかについて判断することとする。

新聞紙の意義については、公職選挙法にも、また、他の法令にもこれを規定したものはなく、ただ、旧新聞紙法(明治四十二年法律第四十一号)第一条第一項に、「本法ニ於テ新聞紙ト称スルハ一定ノ題号ヲ用ヰ時期ヲ定メ又ハ六箇月以内ノ期間ニ於テ時期ヲ定メスシテ発行スル著作物及定時期以外ニ本著作物ト同一題号ヲ用ヰテ臨時発行スル著作物ヲ謂フ」と規定しており、また、新聞紙のあるものについて、法第百四十八条第三項は、詳細な規定を設けているのであるから、同条第一項にいう新聞紙の意義は、旧新聞紙法及び法第百四十八条第三項に規定されている要件及び法第百四十八条第一項において新聞紙雑誌等に対し選挙に関する報道及び評論の自由を保障した理由等を参考としながら、社会通念に従つてこれを判断しなければならないものと考えるのである。

そもそも、法第百四十八条第一項において新聞紙、雑誌等に対し選挙に関する報道及び評論の自由を保障した所以のものは、憲法第二十一条の精神を尊重して法第百四十八条第一項にいわゆる新聞紙雑誌等の社会的な存在理由を認め、もつて選挙に関し、豊富な資料と公平な言論とを国民に提供させることによつて国民の民主的意識の向上に資せんとするにあるのであるから、それがために同条第三項は、選挙運動の期間中及び選挙の当日において新聞紙、雑誌等と認めるものについて厳格な要件を求め、また、右期間以外においても、同条第一項但書において、選挙の公正を害するが如き表現の自由の乱用を禁止し、かつ、同条第二項において頒布について正規の方法を逸脱することを禁じているのである。よつて、右旧新聞紙法及び法第百四十八条第三項の各規定や、同条第一項が新聞紙、雑誌等に対し、選挙に関する報道の自由を保障した右のごとき理由を参酌し、かつ、社会通念に従つて法第百四十八条第一項にいわゆる新聞紙の意義について考えてみると、法第百四十八条第一項にいわゆる新聞紙とは、次に述べる各要件を具えているものをいうものと解せられるので、以下これら各要件について説明することとする。

(一)  不特定又は多数の者に頒布されることを目的とすること

およそ、新聞紙が法第百四十八条第一項の適用を受けるのは、それが一部特定の者にのみ頒布されるようなものであつてはならず、広く不特定又は多数の者に頒布することを目的とするものであることを要するのであるが、必ずしも広く市販されるものであることを要するものではなく、ある程度頒布先の特定されているものであつても、その頒布先が相当広範囲にわたり、相当多数の人々に報道、評論(この意義については、のちに説明する)を提供しているものも新聞紙に包含されるものと解すべきである。

(二)  特定の人又は団体により、一定の題号を用い、比較的短かい間隔をおき、号を逐つて定期的に発行されるものであること

法第百四十八条第一項にいわゆる新聞紙は、前記の目的及び使命から考えてみると、特定の人又は団体により、一定の題号を用い、比較的短かい間隔たとえば、日刊、週間、旬刊、月刊等の形で号を逐つて定期的に発行されるものであることを要すると解せられるのであるが、それが比較的短かい間隔をおいて号を逐つて定期的に発行されるものである限り、発行の時期から区別してそれが右のいずれにあたるかは、問うところでないと解すべきである。

(三)  報道及び評論を主たる内容とするものであること

法第百四十八条第一項にいわゆる新聞紙の記事は、通常時事問題に関する報道、評論をその内容とするものと考えられるが、必ずしも右時事問題に限局する要はない。そして、同条同項にいわゆる報道とは、選挙に関する事実を客観的にありのままに知らせることであり、同条同項の評論とは、選挙に関する事実について批判、論議することをいうものと解せられるのである。

(四)  印刷に付せられているものであること

法第百四十八条第一項の新聞紙は、その使命及び目的から考えると、ほとんど時を同じうして不特定又は多数の者に頒布されるものであつて、その対象たる読者が多数人であることは、当然の理であるから、その記載内容は、印刷に付せられていなければならないものと解すべきである。従つて、掲示等の方法によつてその内容を一般に報告することを目的とする手記によるいわゆる壁新聞のようなものは、法第百四十八条第一項の新聞紙ということはできないのである。

(五)  有償頒布が常態であること

法第百四十八条第一項の新聞紙は、その報道及び評論によつて、広く社会的な問題についての誤りのない智識及び健全な判断を示す目的及び使命を有し、その目的及び使命を達成するためには、相当の資本及び人的、物的の設備を必要とする関係上、有償頒布が常態であると解せられるのである。もつとも、組合その他団体の構成員に無償で配布される機関紙のようなものは、その発行に要する経費が、組合員、団体員から徴収される会費等によつて賄われているような場合がないわけではないが、このような場合も有償頒布と考えるべきである。

以上説明したところによれば、法第百四十八条第一項にいわゆる新聞紙とは、特定の人又は団体により、一定の題号を用い、比較的短かい間隔をおき、号を逐つて定期的に印刷発行される報道及び評論を主たる内容とする文書であつて、不特定又は多数人に広く頒布されるものと解するのが相当であり、原判決の掲げた新聞紙の意義も大体右と同趣旨であると考えられるのであつて、法第百四十八条第一項にいわゆる新聞紙の意義をこのように解すれば、新聞紙に選挙の公正が害されるおそれのない報道及び評論が掲載(但し、法第百三十八条の三所定の人気投票の公表の点を除く)されることによつて、特定の候補者に当選を得させることだけを目的とする主観的な宣伝記事を排除することができるのみならず、読者に選挙に関する必要な智識及び判断の資料を提供することができるのであるから、法は、かかる観点から選挙の公正を害しない範囲において、新聞等に表現の自由を尊重しているものと考えられるのである。そして特定の文書が法第百四十八条第一項の新聞紙にあたるかどうか、またその内容たる記事が同条同項にいう報道及び評論にあたるかどうかは、その文書自体を前記新聞紙の意義に照らして決定すべきものであり、かつ、それのみで足りるものといわなければならない。従つて、発行者や頒布者の意図、頒布方法、従来の頒布状況等によつてその文書が法第百四十八条第一項にいわゆる新聞紙になつたり、ならなかつたりすることは、原判決の判示したとおり、いたずらに新聞紙及び報道、評論の意義を不明確にするものであるといわなければならない。

そこで、日本議会新聞の「本紙」が同条第一項の新聞紙であるかどうかについて考えてみると、押収にかかる昭和三十三年四月三日付日本議会新聞一通(昭和三五年押第四〇〇号の二)及び同月七日付同新聞一通(同押号の一二)を見ると、右各文書は、いずれも活版印刷に付されたものであり、その題号として日本議会新聞と、発行所として、東京都千代田区丸の内三丁目一番地株式会社日本議会新聞社と、発行の日を日刊(土・日・祝日休刊)と、発行番号、発行の年月日及び第三種郵便物の許可のあつた年月日として、それぞれ所要の番号及び年月日が記載されている(同月七日付のものには定価月三百円一部十五円の記載があり、同月三日付のものには、その記載を欠いているが、その記載がないことの一事をもつて、同月三日付の右新聞紙が法第百四十八条第一項所定の新聞紙ではないということはできない)のであり、また、右各文書は、前記(一)乃至(五)の各要件を備えており、選挙その他政治問題に関する報道及び評論を主として取り扱つたものであるから、右各文書は、いずれも、法第百四十八条第一項にいわゆる新聞紙であると認めるのが相当である。次に、本件号外が右にいわゆる新聞紙にあたるかどうかについて考察すると、押収にかかる本件号外(前同押号の一)をみると、右文書は、本紙同様活版印刷に付されたものであつて、本紙と同一の題字を用い、発行所、発刊日として前記本紙と全く同一の記載を有し、かつ、第三種郵便物認可と表示し、その号数については、号外、昭和三十三年四月三日(木)と記載されており、その定価については、なんらの記載がないのであるが、前記本紙が有償で頒布されることが建前である以上、右号外も反証もない限り有償で頒布されるものであると認められ(同号外が無償で頒布される建前であるとの点については、これを認めるに足りる確証がない)、その内容は、原判決に罪となるべき事実として記載された事項と同一であつて、右記事及び写真によつて受ける印象は、同号外は、衆議院の解散及び選挙の投票日に関する報道を取り扱い、併せて田中栄一が右選挙に立候補することが内定したこと、同人は、その閲歴等からみて、都政のために十分な活躍をするものと期待される旨の記事を同人の写真とともに掲げているのであつて、右号外の記載内容中田中栄一に関する部分は、一見同人の当選を目的とする宣伝記事と誤解されるおそれがないことはないのであるが、その記載内容は、未だ新聞の使命たる報道及び評論としての客観性を失つているものとは考えられないから、これをもつて、右号外が法第百四十八条第一項にいわゆる選挙に関する報道及び評論を掲げた新聞紙の範囲を逸脱し、もつぱら同人の当選を目的として発行された違法の文書であるとすることはできない。即ち、さきに説明したように法第百四十八条第一項が新聞紙、雑誌等に対し、報道、評論の自由を保障していること、同条第三項が選挙運動の期間中及び選挙の当日において新聞紙、雑誌等と認めるものに厳格な要件を規定していること、右期間以外においても、同条第一項但書において選挙の公正を害するが如き表現の自由の乱用を禁止し、かつ、同条第二項において、その頒布について正規の方法を逸脱することを禁じていること等に徴すれば、法第百四十八条第一項の要件を具備する新聞紙等が、選挙に関し、特定の候補者の人格、識見、閲歴、手腕及び政見等を客観的に報告あるいは批判することは、選挙に関し、国民に正しい智識と判断の資料を提供するものであつて、なんら選挙の公正を害するおそれはなく、本件号外の記事も右の趣旨において田中栄一の閲歴、手腕等に関する事項及びかかる閲歴、手腕を有する同人の国会議員としての活躍が期待される旨の選挙に関する報道及び評論を含むと認められるのであるから、右号外に田中栄一の写真を入れたことは、多少宣伝的であり、また、右報道は、前記昭和三十三年四月三日付の本紙の内容と大体において重複してはいるが、これをもつて、新聞としての特質を失つたものとはいえず、本件号外が報道又は評論の具有する客観性を逸脱したものであつて、もつぱら田中栄一の当選を目的とし、名を新聞の号外に藉りて発行された違法の文書であるとすることはできないのである。もつとも、原判示によれば、本件号外は、右選挙に東京第一区から立候補することに内定した右田中に当選を得させる目的をもつて頒布されたものであり、頒布の方法も号外屋を使用して通行人に無料で手渡したり、飛行機で上空から撤き散らす等通常の方法によらなかつたというのであつて、このことは、原判決挙示の各関係証拠によつて認められ、また、これらの各証拠によれば、その発行部数も本紙の発行部数五千部(但し、創刊号は一万部)に比し異常に多い十万部以上であつたことが認められるのであるが、これらの事実は、右号外が法第百四十八条第一項の新聞紙にあたるか否かを決定する基準とならないことは、さきに説示したとおりである。それ故、本件号外は、同条同項にいわゆる新聞紙であつて、検事所論のような法第百四十二条の法定外文書ではなく、従つて、被告人柳原、同田村及び同武井ら三名が共謀の上、右号外を、号外屋を使用して通行人に無料で手渡させたり、飛行機で上空からまき散らさせたりしたことは、法第百四十八条第二項の規定に違反するに止まり、田中栄一のための選挙の事前運動であるということはできない。そして、原判示右被告人ら三名の犯罪事実は、原判決挙示の右各関係証拠を綜合すれば十分これを認めることができるのであるから、原審がこれに対し法第百四十八条第二項、第二百四十三条第六号を適用し、法第百四十二条、第二百四十三条号三号及び第百二十九条、第二百三十九条第一号を適用しなかつたことは、もとより当然であり、右の理由によつて、本件号外の頒布が法定外文書の頒布及び事前運動にあたるという主位的訴因を排斥した原判決には、なんら法令適用の誤はない。論旨は、理由がない。

第二点(事実誤認について)

所論の要旨は、本件各金員は、安井被告人の柳原被告人ら三名に対する同被告人らが法定外文書たる本件号外を頒布したこと等の選挙運動に対する報酬として授受されるものであるにもかかわらず、これを、いずれも日本議会新聞に対する賛助金であると認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるというのである。

よつて、これに対し次のとおり判断する。

原判決が認定した右各金員授受の趣旨に関する証拠説明のなかに、被告人とくに安井被告人の原審公判廷における弁解を全面的に採用し、その弁解趣旨に反する証拠は、これを採用しないとしている観があることは、所論のとおりである。しかし、これは原審が安井被告人に対し好意的な見方を採つて事実の認定をしているのではなく、原審が全証拠を比較検討した上、事案に対する心証を得た結果、原判決挙示の各証拠あるいは認定事実に基いて原判示各金員授受の事実及びその趣旨について原判示のように認定したのであるから、右認定に反する各証拠を排斥したのは当然であつて、これを原審が安井被告人の立場に同情する余り証拠の評価を誤つたものということはできない。また、原判決には、いわゆる政治家のローカル紙に対する賛助金に対する実体に関する理解の不足があるというのであるが、原判決は、その挙示する各証拠により、本件各賛助金の実体を把握した上で原判示各事実を認定していることは、原判決を一読すれば充分これを理解することができるから、原判決には、右理解の不足によつて、事実を誤認した点があるということはできないのである。

しかるに検察官は、原判決が事実を誤認した根拠として(一)乃至(八)の各事由を挙げているから、これら諸点について判断を加えることとする。

(一)(控訴趣意書38頁以下参照)について

原判決が認定した本件金二十五万円授受の以前における安井被告人から柳原被告人らに出捐した賛助金全部に対する判示及びその証拠並びに本件金二十五万円授受に関する各証拠によると、右授受が行われるに先立ち、柳原被告人らは、安井被告人から相当の賛助金の出捐が得られそうであるとの見とおしを持つていたことは充分考えられるのみならず、柳原被告人らの原審における各供述や検察官に対する供述調書中には、同被告人らは、本件号外を発行しこれを頒布することについては同被告人らの行為が選挙違反に問われることがないかどうかを相当心配していたことが窺われるのであるから、賛助金の出捐を容易にするため号外の話を持ち出して金員を要求することは、公職選挙法違反の嫌疑を受ける虞があることは充分考慮していたものと考えられるのである。それ故、原判決がこの点について、柳原被告人らが号外のことを持ち出してあからさまに金員を要求するとは思われない旨推断したことについては、その根拠が薄弱であるということはできない。

(二)(同41頁以下)について

原判決は、その挙示する関係証拠を比較検討した上、昭和三十三年四月四日朝柳原被告人らが安井知事を訪問した際、あからさまに本件号外頒布の報酬を要求し、突つ込んだ話をしたことや、その会談ののち、安井知事と安井被告人との間にこの点に関する連絡があつたとは考えられない旨認定し、各その根拠を挙げて詳細な説明を加えているのであるから、原判決の認定には所論のような数々の疑問があるということはできない。

(三)(同51頁以下)について

原判決は、安井被告人が本件金二十五万円を独自の判断で出捐する立場になかつたことの根拠として(イ)乃至(ヘ)の六つを挙げ、各その理由を詳細に説明しているのであつて、その説明は、いずれもこれを肯認し得るものというべく、この点に関する検察官の各主張によつても、この認定を左右することができない。

(四)(同56頁以下)について

原判決が、柳原被告人らが昭和三十三年四月七日安井被告人の自宅を訪ね、金二十五万円の供与を受ける前に同被告人の自宅を訪ねたかどうかきわめて疑わしいとし、その根拠として(イ)乃至(ニ)の各事由を挙げていること及び原判決が援用する安井被告人の参議院手帳には、同日柳原被告人らが安井方を訪問した記載があるが、同月五日には、柳原被告人らが安井方を訪問した記載がないことは、いずれも所論のとおりである。しかしながら、原判決は、右手帳に、四月五日に柳原被告人らが安井方を訪問した記載がないことを重視して、安井被告人は同日柳原被告人らの訪問を受けた事実がなかつたことを認定しているのではなく、右手帳の記載を含む各証拠を総合して、前記のような説明をしていることは、原判決の当該部分の判示を一読すれば明らかである。そして、原判決が右部分に挙示する各認定事実やその関係証拠を総合すると、柳原被告人らが金二十五万円のことで安井被告人方を訪問したのは、同年四月七日の朝一回だけであるとの蓋然性が大きく、柳原被告人が右一回の訪問だけで右二十五万円を受領することができたのは、それ以前に安井方に二回程電話した結果、同年四月七日の朝安井被告人方で右金員を授受する打合せができたことによるものであることが認められるのであるから、原判決には、この点につき、所論のような一面的な観察によつて事実を認定した違法、不当の廉はない。

(五)(同58頁以下)

原判決は、所論のような推論によつて本件金二十五万円授受の趣旨を認定しているのではなく、原判決挙示の各関係証拠を総合して右金員授受の趣旨を認定した上、本件の各証拠に現われている事実を基本として証拠に対する原審の考え方を卒直に説明したものであることは、原判決の当該部分を、一読すれば明らかであるから、原判決の右金二十五万円授受の趣旨に関する認定は具体的な証拠に基づく合理的な結論ではないということはできない。そして、所論は、右趣旨の点について原判決が述べているところを総合すれば、その部分の判示自体で号外の報酬性がおのずから浮び出ているようにさえ読めるというのであるが、原判決の右の部分を一読しても、これを所論のように号外の報酬性がおのずから浮び出ているものと解することは困難である。従つて、原判決の推論の過程に所論のような無理があるということはできない。

(六)(59頁以下)について

所論は、被告人らの検察官に対する各供述調書には任意性や信憑性について欠けるところがない所以を各被告人別に説明しているのであるが、原判決は、その三三頁以下において、「しかし、安井と柳原との間の従来からの関係、各金員が授受されるに至つた経過、田中と安井との当時の関係等の客観的事実を、捉われない立場で、し細に検討すると、右各金員は、議会新聞等に対する賛助金として授受されたものと認められ、号外頒布等の報酬として授受されたものとは認めがたい。したがつて、この点に関する被告人等の自白は信用できない。以下項を分つてその理由を詳述する。」といつて、まず、本件金二十五万円の授受は、号外頒布等に対する報酬として行われたものとは認め難いことを詳述し、ついで、被告人らの自白を記載した検察官の供述調書がどういう点で何故に信用できないかを簡単に説明する旨を述べ、安井被告人の供述調書については、同調書に記載されている供述内容を他の証拠と比較対照してみると、同被告人が記憶のはつきりしないままに漠然と述べたことが、はつきり述べたように書かれたり、断片的な問答の結果が筋道を立てて綴り合わされたり、日本議会新聞の賛助金として交付したと述べたことが、検事の理詰めの問によつていつか号外頒布の趣旨も含まれるように述べたことにされたりした疑があるといい、柳原被告人らの各供述調書は、その内容がほとんど三人三様で、会談の内容等についての各供述のくいちがいには、単なる記憶違いや表現の差異とは認め難い節があり、右各供述内容には、本件金二十五万円がもつぱら号外頒布等の報酬として要求され、供与されたものであること、安井被告人は、号外頒布の事実をよく知り、その報酬のこともよく心得ていて、進んで右金二十五万円を供与してくれたことを強調する傾向が見られること、この点が同被告人らの原審における各公判の供述とは根本的に異なり、しかも、安井被告人の供述調書には、終始前記新聞に対する賛助金の趣旨もあつた旨の記載があることその他の事情に照らすと、右柳原被告人らの供述内容は検察官に対しことさら虚偽の、あるいは迎合的な供述であることの疑が強いことを判示し、各被告人の調書別に右の各点を、それぞれ根拠を挙げて説示し、これら各調書の内容には信用し難い点が多く、これをもつて本件金二十五万円が、日本議会新聞に対する賛助金であつて、号外頒布の報酬ではないとの認定を左右することができない旨を述べているのであるから、原判決の右説明に所論のような偏見的な検討の態度が強く見られるということはできず、原判決の説明中に現われている個々の論点についても、所論のような種々の誤があるということはできない。尤も安井被告人の所論の検察官に対する供述調書(昭和三十三年八月二日付のもの)の記載中には、安井被告人が、検察官に対し、本件金二十五万円授受の事実を否定したり、本件金三十万円は、約手を取つて柳原らに貸したものであり、その返金の催促を秘書にやらせていた等、真実に反した部分があることは、所論のとおりであるが、右安井被告人の供述記載は、右各金員授受の趣旨が検察官所論のとおりであつたからそれを隠しておくためであつたと見るべきではなく、それら各金員授受のてんまつは、なるべくこれを伏せておき、捜査当局からあらぬ疑を受けないようにしたいとの意図に出たものであることは、同被告人の各供述調書を比較対照してみれば、自ら窺知できるのである。また、原審第二十一回公判調書中に同被告人の供述として、逮捕状の事実は知らなかつた等という趣旨の記載があり、同第二十三回公判調書中に同被告人の供述として、三十万円と聞かれたから言わなかつたという趣旨の記載があることは、所論のとおりであるが、右逮捕状の事実は知らなかつたというのは、安井被告人としては、選挙に関し、柳原被告人らに金員を供与したなどということは身に覚えのないことであるから、そのような嫌疑で逮捕されることは思いもよらなかつたことであつたため、その当時の気持をそのまま述べたものと認められ、三十万円と聞かれたからいわなかつたというのも、当時検事から柳原被告人らに金二十五万円を供与した事実の有無を聞かれたことがなかつたので、その事実までも進んで供述しなかつた次第を卒直に述べたに過ぎないものと認めるのが相当である。従つて、この点について「議会新聞への賛助金という考えのみで出した金であるなら誰に聞かれても堂々と供述できる筈である。」との検察官の所論は、これを採ることができない。また、所論は、「安井程の社会的地位もあり智識も豊かな者が自白調書をとられることの意味を知らない筈はなく、自己の述べたことと全く違うことを書かれたり、曲げて録取されたりした調書に易々として署名指印するとは絶対に考えられない。」というのであるが、所論の各供述調書や原審公判廷における安井被告人の供述を総合して考えてみると、右各供述調書の内容は、同被告人の述べたことと全く違うことを書かれたというのではなく、同被告人が現実に供述したことを多少歪曲して書かれたものであるとか、客観的にはそうも考えられるようなことを理詰めで推問された結果、強く反対することもできず、やむなくこれを承認した結果、録取されたものであるため、右各調書に署名指印するのやむなきに至つたことを窺知できるのであつて、原判決の説明も結局これと同趣旨に出でたものと考えられるから、安井被告人が所論の供述調書に署名指印したことをもつて、あえて異とするには足りないのである。

(七)(77頁以下)について

本件金二十五万円が日本議会新聞に対する賛助金であると同時に本件号外頒布等に対する報酬と見ることは矛盾した物の見方でないことは所論のとおりである、しかし、原判決は、その挙示する各関係証拠によつて本件金二十五万円は、もつぱら右賛助金として受授されたものであると認定し、右金員には、号外頒布の報酬としての意味は含まれていないことを説明しているのであつて、右判示には、なんら所論の違法はないのである。そして、安井被告人と柳原被告人らとの従来の賛助金授受の経緯や、その実質に照らし、本件金二十五万円が右賛助金であると同時に運動報酬であるという性質を備えているという所論については、これを確認するに足りる証拠がないのであるから、原審が本件金二十五万円が右のような二つの性質を兼ね備えていることを認定しなかつたからといつて、その認定に所論の違法があるということはできない。

(八)(80頁以下)について

原判決は、本件金三十万円が日本議会新聞に対する賛助金として授受されたものであることを認定し、その証拠として、被告人らの原審公判廷における各供述や、被告人らの検察官に対する各供述調書中の各記載を挙げ、右三十万円授受の経緯について説明した上、右授受の経緯によると、柳原被告人らは、安井被告人に対しあからさまに本件号外頒布の報酬を要求し又は右頒布の事実を強調するようなことを述べた事実はなく、右金員授受の実情は、金に困つた柳原被告人らが安井被告人に泣きついて間もなくもらえる予定の盆の賛助金を引当にして出捐を頼み込み、安井被告人も渋々これを承諾したと見るべきであり、かりに号外の頒布ということがなかつたとしても、右のようなことはありそうに思われるし、その根拠として、本件各金員授受以外の日本議会新聞に対する安井被告人その他各方面からの賛助金授受の実情や、本件金三十万円授受の当時柳原被告人らが非常に困つていたことなどを挙げ、本件金三十万円は、右新聞に対する賛助金として授受されたもので、本件号外の頒布がなかつたならば、右金員の授受は行われなかつたとは認め難いこと、被告人らの検察官に対する各供述調書中右金三十万円が号外頒布に対する報酬である旨の記載は措信できないこと、昭和三十三年七月十日頃柳原、武井両被告人が安井知事を訪ね、同新聞に対する賛助金の出捐を懇請したことがあるが、この事実は必ずしも本件金三十万円が賛助金ではなかつたことを推測させるものではないこと、安井被告人が本件金三十万円を柳原被告人らに交付した事実を安井知事に連絡したかどうかは不明であるが、かりに右の連絡がなかつたからといつて、右三十万円が号外頒布等に対する報酬であるとすることはできないことを、それぞれその理由を挙げて説明しているのであつて、その説明は、いずれも相当であると認められ、また、安井被告人が昭和三十二年十一月から七ケ月の間に四回にわたり二、三十万円ずつを柳原被告人らに出捐したとの事実も、原判決がその三四頁以下に掲げた日本議会新聞に対する賛助金の出捐(本件各金員の授受以前のもの)に関する経緯、本件各賛助金授受についての実情及び出捐者側における出捐の理由に照らせば、あながち理由のないことではないと考えられるから、右各出捐のうちに包含される本件金三十万円の授受をもつて、所論のように本件号外の頒布とか、田中栄一の当選に関係があるとすることはできない。以上に徴すると、本件各金員は、柳原被告人らの日本議会新聞に対する賛助金として授受されたものと認められるから、原判決が、右各金員は、本件号外頒布等による田中栄一のための選挙運動の報酬として授受されたものとは認め難い旨認定したのは、まことに相当であつて、原判決には、なんら所論の事実の誤認はない。論旨は、いずれもその理由がない。

同第三点(量刑不当)について

所論に鑑み、記録を調査し、柳原被告人ら三名の経歴、職業、同被告人らと東京都庁側との関係、本件犯行の社会に及ぼした影響、武井被告人には古い窃盗の前科があり、田村武井両被告人は、昭和三十三年中東京地方裁判所において入札妨害等の罪により、それぞれ有罪の判決(いずれも懲役刑の執行を猶予された)を受け、現に控訴中であることについて考えてみると、被告人ら三名の刑責は、決して軽微なものということはできないのである。しかし、本件犯行の態様は、さまで悪質のものとは考えられず、また、本件号外の作成頒布も所論のように、これによつて選挙運動に対する巨額の報酬を得ようとしたためではなく、安井被告人らからの日本議会新聞に対する賛助金の出捐を円滑にしようとしてなされたものであつたこと、被告人ら三名には、本件のような方法で、今後再び罪を犯すような虞があるとは考えられないこと等の各情況について考えてみると、右被告人ら三名に対する原審の量刑は、いずれも相当であり、これを軽きに過ぎるものであるということはできない。論旨は、理由がない。

よつて、刑事訴訟法第三百九十六条、第三百八十条、第三百八十二条、第三百八十一条に則り、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 下村三郎 判事 高野重秋 判事 真野英一)

検察官の控訴趣意

第一点原判決は公職選挙法第百四十八条所定の「新聞紙」及び「報道、評論」の意義についての解釈適用を誤まつた結果、本件の「日本議会新聞号外」と題する文書を同条第一項本文にいう「新聞紙」にあたり、その記載内容は「選挙に関する報道及び評論」に該当するものとし、検察官の法定外文書の頒布及び事前運動の禁止の各制限違反にあたるとする主位的訴因を斥けたものであつて、その誤りは判決に影響を及ぼすこと明らかである。

一、原判決はその(主位的訴因を排斥した理由)中において

(一) 公職選挙法(以下単に法という)第百四十八条第一項にいう「新聞紙」とは、特定の人または団体により一定の題号を付して、比較的短い間隔たとえば日刊、週刊、旬刊等の形で、反覆して発行され、不特定または多数の人に有償で頒布され、あらゆる社会的問題について事実を知らせる「報道」およびこれらの事実についてその背景、解釈、意見等を伝える「評論」をその主要な内容とするのを通常とする文書であると解し、

(二) ある文書が「新聞紙」にあたるかどうかは特に法の重要な基本概念の一つであるから、明確な基準によつて判断されるべきであり、従つていやしくも客観的に「報道及び評論」を掲載した「新聞紙」の形式を備えているとみられる文書は、たとえそれが実質的に当選目当ての宣伝であると推測される場合にも、第百四十八条第一項本文の適用を否定することは妥当でない。

(三) ある文書の記載内容が「報道及び評論」にあたるかどうかは、その記載自体を客観的に考察してそれが社会通念上「報道」または「評論」の範囲に属するといえるかどうかによつて決すべきである、特定の候補者に当選を得させる目的をもつて掲載したことはその記載が「報道及び評論」であることを否定する根拠にはならない。

(四) このように解しないと、同様な内容の文書が作成、発行、頒布にあたつた者の主観によつて「新聞紙」あるいは「報道及び評論」になつたり、ならなかつたりすることとなつて、不合理であるばかりでなく、憲法の保障する表現の自由を危うくするおそれがある。

(五) 所謂「号外」名義の文書については、その文書が、前述の定義にあたる「新聞紙」の発行者によつてその新聞紙と同一の題号を用いて発行され、かつ社会通念上新聞紙と認められる体裁を備えたものであれば法第一四八条第一項の保護を受ける「新聞紙」に該当する、これ以上の実質的要件を要求することは新聞紙の概念をあいまいにし法の趣旨に反する、文書の頒布方法が新聞紙の通常の頒布方法と異なること、無償で頒布されたこと、発行者が特定候補者に当選を得させる目的をもつていたこと、その他発行部数の多いこと、号外の速報性、必要性の欠けていること等の発行に関する事情は号外の新聞紙性を否定する根拠にはならない。

と判示した上、本件「日本議会新聞号外」と題する文書をもつて、公職選挙法第百四十八条第一項本文の「新聞紙」であり、その内容も「選挙に関する報道及び評論」にあたるものであると認定している。

二、さて、原判決の「新聞紙」及び「報道、評論」の意義についての右の見解は一見明確な基準を定めた合理的なもののように見える。しかし仔細に検討すると基準の明確性を強調するのあまり、客観的な判断とはいいながら、実は極めて形式的、表面的な観察、判断に堕している嫌があり、法の保護が与えられる実質的理由を没却して不当に「新聞紙」及び「報道、評論」の概念を拡張するものといわなければならず、特に号外名義の文書の新聞紙性については、「号外」という特殊性を考慮に入れない見解であつて到底賛同しえない。次に項を分けてその理由を開陳する。

(一)(1)  原判決が前記のように「新聞紙」の一般的定義を論じている点には特に異論がない。又法第百四十八条第一項が新聞紙の選挙に関する報道及び評論を掲載する自由を保障した趣旨として、「その性格上多かれ少なかれ記事の客観性を要求される文書に選挙に関する事項を報道、評論の形で掲載することを許しても、特定候補者に当選を得させることだけを目的とする主観的な宣伝記事に堕する等の弊害の面は比較的少なく、人々に選挙に関する必要な判断の資料を提供する等有益な面の方が多いとするにある」と説くところにも賛同しうる。このことは換言すれば、一般的に新聞紙とされるものが持つている「社会の公器」としての公共的性格とその使命を尊重し、その公共性から逸脱する虞れの少ないことを信じ且つ期待しての保護であるということができる。

(2)  ところで、右のような主観的宣伝文書に堕する虞れが少なく、人々に選挙に関する必要な判断の資料を提供する等有益な面の方が多いということを一応期待できる文書、すなわち「社会の公器」たる実質を具有すると認められる形態の文書については、「新聞紙」として格段の保護を与える意義があるのであるが、そもそもそのような信頼乃至期待を殆んど寄せえない程異常な形態の文書、つまり「公器」でなくて「私器」にすぎない実質のものについてまで保護を与えるべきいわれはない。そのようなものは、たとえ「新聞紙」の外観を備えていても、それは単に表現の自由を濫用して名を「新聞紙」の「報道、評論」に藉りたものにすぎないからである。

(3)  さて、右の公器として法の保護を受けるに価するものと、然らざるものとの区別はどのような基準に従つてなすべきであろうか。原判決は文書自体の内容と形式との客観的考察のみによるべきであつてそれ以上の実質的考察はなすべきではないとする。しかし右にのべたような法の「新聞紙」に保護を与えた趣旨に照すと、やはり事をあくまで実質に亘つて観察し判断しなければ到底適正妥当な区別はなし難いと思われる。「新聞紙」の一般概念として原判決も掲げる頒布対象の不特定又は多数性、有償性、反覆性等は公器性の期待の高度さを示す徴表的事情であつて、それはとりもなおさず文書の発行形態についての実質的考察に外ならない。ところで、右の徴表的事情にも例外のあることは当然考えられるし、文書の発行形態について実質的考察を要する事柄は右の三つの事情に限られるものではないのであるから、ある文書の公器性を法の趣旨に従つて誤りなく把握し判定するためには文書自体の内容、形式、外観についての客観的判断に加えて、文書の作成発行に関する一切の実質的な事情を綜合的に勘案考察することが必要である。原判決は、法の保護する「新聞紙」であるかどうかを区別する基準は特に明確でなければならないとして、実質的綜合考察を排しているが、それは誤りである。基準の明確性の要求もさることながら、法の趣旨とする実質面よりの要請を犠牲にすることは本末転倒である。

(4)  尚、法第一四八条第三項は選挙運動期間中及び選挙の日に限り、同条第一項の保護を受くべき新聞紙の範囲を形式的一義的基準によつて制限しているが、このことは必ずしも右以外の期間についてもすべて形式的に新聞紙の概念を把握しなければならないという理由にはならない。すなはち右期間内においては選挙の公正を保つべき要請が殊の外強く、「新聞紙」による選挙運動の事例も多発するところから、一応新聞紙と認められる文書中その継続的定期的発行の要件につき、特に厳格な基準を設定し、然も法の適用についての混乱を避けるため、その基準を形式的な点に求めたものと解し得るのであつて、事情を異にする右期間外においては、その基準を参考としつつ各般の面についての実質的考察を加えて判定することはむしろ当然のことといわなければならない。

(二) 次に原判決が自ら明確な基準であると称して掲げるところが果して具体的な基準として妥当なものといいうるか否かについて検討してみたい。

(1)  原判決が新聞紙性を定める基準として挙げる文書自体を「客観的に考察して」とか「冷静に客観的に観察して」とかいつている言葉自体極めて観念的であつて、明確な基準たりうるものとは考えられない。更に客観的に判断するといつても、判断の主体はあくまでその文書が頒布された時期における健全な常識を有する第三者であるべきである。そうすれば頒布の時期は、選挙の期日との関連において必ず考察されなければならない重要な事項である筈である。又文書は他人への意思伝達方法に外ならないことを考えれば、健全な常識を有する第三者へ伝達した方法すなわち頒布方法を全く度外視してその文書の性格を論ずることは無意味なことである。原判決が新聞紙を定義づける要素として掲げる頒布対象の不特定又は多数性、有償性、反覆性等は文書自体をいくら客観的に考察してもそれからは発見し得ない要素であつて、このことはある文書の新聞紙性を認定しようとするには、少くともその文書の頒布部数、頒布先、場所、その方法、従来の頒布状況、対価の有無等文書自体に現われていない外部的な発行事情全般についての観察が必要であることを示すものである。もつとも原判決のいわんとするところも、要は主観的な要素を判断の基準とすべきでないというにあつて、「新聞紙の形式を備えたもの」という認定をするに際し、右のような文書の発行に関する外部的事情をその判断資料とすることを是認しているように解される部分がないではない(判決一九丁七、八行目、及び一六丁参照)。けれども原判決が繰り返えし文書自体の客観的考察ということを強調していること等(判決一二丁一二行目、二〇丁七行以下特に二一丁七、八行目参照)に照すと、必ずしも右のような見解を前提としているものとも解しえない。この意味において原判決の論旨には矛盾がある。すなわち、「新聞紙」を一般に定義づけるに際しての考察方法と具体的文書の「新聞紙」性を判断するに際しての考察方法との間に矛盾が見られるのであつて、このことは、原判決の考え方がいまだ十分練り上げられたものでないことを示すものであり、そして本件号外の新聞紙性を肯定するに際して掲げられた客観的基準なるものは、単なる思いつきにとどまるのではないかとの疑を抱かせるのである。

(2)  次に、原判決が「報道、評論」にあたるかどうかは「記載自体を客観的に考察して」決すべきであるといつている点は、抽象的には一つの基準を示すように見えても、果して具体的な判定基準として通用するものであるかどうか疑わしい。すなわち、現実に法にいわゆる報道、評論といいうるかどうかが問題となる具体的事例では文面に「ある人を当選させよう」「ある人に投票せよ」というような推せん、支持、投票依頼の結論的文言だけを記載した文書は殆んどないといつてよいのであり、必ずその者の立候補の事情、推せんする理由等が記載されるのが常である。そうであるとすると、原判決の基準によれば現実に問題となる殆んどすべての文書が一応報道し又は事実について批判論議をしているものとして「報道、評論」にあたるということになろう。もつとも、原判決もこのような極端な結論を是認するものではないであろうし、そこには社会通念上「報道」又は「評論」といえるものでなければならないというしぼりがあるとするのかも知れない。しかし、特に原判決の要求するようにあいまいな基準でなく明確な基準を設けるということになれば、極めて平面的、形式的に、多少の報道的又は評論的文言が折り込まれていさえすれば、必然的に全体を「報道、評論」として扱わなければならないという立場を採らざるをえないと思われる。このように考えて来ると、具体的事例において、ある文書の記載内容が、特定候補者に当選を得しめるための主観的宣伝文言にすぎないか、報道評論の範囲内であるかを、その記載自体の考察により決めようとすることは、それ自体極めて困難なことであり、仮に社会通念上報道評論といえるものに限るという絞りをかけるとすれば、そこには多少とも判断基準のあいまいさが入ることになるのであつて、原判決の示す客観的基準なるものは観念的な言葉の遊びにすぎないといわざるを得ないものである。

(三)(1)  以上の原判決に対する批判を通じて示したわれわれの正当なる見解をとりまとめてみると、ある文書が「新聞紙」にあたり「報道、評論」といえるかどうかは、その文書が社会の公器としての使命を完うするに足るものであるかどうかの実質的判断によるべきであり、そのためにはその文書自体の外観、体裁、記載内容等の客観的考察を主とすべきことは当然であるが、他方その文書の頒布された時期、頒布の対象、部数、方法、従前の頒布状況、対価の有無等の外形的な発行頒布に関する一切の事情をも客観的に観察し更に右のような事実関係から合理的に推認される発行、頒布者の意図乃至目的等も参酌して綜合的に判断し決定すべきものであるということになる。而してその判定の基準を示すとすれば、右のような綜合的判断の結果公器性が殆んど認められず而も「新聞紙」の「報道、評論」の外観を選挙運動のため積極的に利用する意図で作成頒布された文書はその外観の如何を問題とせず法の保護する「新聞紙」の「報道、評論」にあたらないとすべきであり、公器性が多かれ少なかれ一応認められ而も選挙運動のための積極的な利用の意図が認められない文書は、「新聞紙」として取扱い、「選挙に関する報道評論」の自由が保障されるとすべきが相当である。後者についてはその公器たるの使命を遂行する過程において勢の赴くところ又はその性格の特殊性から結果的に特定候補者の選挙運動にわたる記事内容となつても止むを得ないと解され、もし不当な目的が存在し又は異常な頒布方法がとられた場合は法第百四十八条第二項又は同条の二第三項により規制すれば足りるのである。これに反し、前者はまさしく表現の自由を濫用するものにあたり、その実質において一般の法定外文書と差別すべき理由は全くないのであるから右のような保護を与える必要性は少しも存しない。

(2)  原判決は右の見解と異なり極めて形式的な基準を設けなければならない理由として次のような諸点を掲げているがいずれも根拠がない。すなわち、

第一に明確な基準を設けた結果多少保護される範囲が拡大されることとなつても、その規制は他の規定によつてされるべきでありそれで十分であるとしている。しかし原判決の指摘する他の規定中法第百四十八条第一項但書、第百四十八条の二、第三項等の規定は特殊の構成要件を要求する規定であつて、その適用はおのずから制限されるものであるし、法第百四十八条第二項による規制では、かりに通常の頒布方法まで予め工作仮装した場合の取締りに窮することとなり、又通常の頒布方法によるものについては、いかに実質において表現の自由を濫用した私器的なものであつても規制しえないという不都合がある(本件号外名義の文書の頒布数が証拠上約十万枚であるのに、判決の認定では約九万枚とされており、その差は主として通常の頒布方法による分は除外するとの理由から生じたものと思われるが、本件号外の如き不当な文書についてはたとえ通常の方法による頒布の分についても規制の必要性があると考える。

第二に客観的に明確な基準によつて判定しなければ表現の自由をあやうくするおそれがあるとの点であるが、表現の自由を濫用し合法な新聞紙を仮装する文書を前記のような基準により「新聞紙」の範囲外としても、決して表現の自由をあやうくするものとは思われない。むしろ公正な選挙の運営という公共の福祉の観点からみて当然の制限というべきである。

第三に、原判決は形式的に同様な内容を有する文書が具体的な頒布目的、頒布状況等の差異により全く異なつた取扱を受けることとなるのは不合理であるとするものの如くである。しかし、法第百四十八条第二項は販売を業とする者のみを対象としており、それ以外の者の異常な方法での頒布行為については規定していないのであつて、それは一般規定に委ねる趣旨と解せられる。例えば特定の候補者等が自己に有利な報道評論の掲載されている新聞紙を大量に買占めて異常な方法で当選を得又は得しめる目的の下に頒布する所為は法第百四十二条違反となるのであり(既にその旨の判例も存する、昭和二十六年三月十九日言渡大阪高裁判決参照)、この点から考えれば同一の文書であつても具体的な頒布目的、頒布状況等が異れば選挙運動取締の観点からは異質の文書として扱われることを法自体が十分予想していると解せられ、決して不合理なことではない。

(四) 以上論じて来たところは、ある文書が「新聞紙」又は「報道評論」にあたるか否かについての一般論であるが、本件の場合は一応「新聞紙」にあたると解される新聞の号外たる外観を備えている文書であるから号外名義の文書と本紙との同一性について検討する必要がある。

原判決は、「号外」をもつて本紙と同一の主体により発行され同一の題号を附している社会通念上新聞の号外と認められる外観を備えているものであることをもつて足ると解しているが、その見解は次にのべるところによつて明らかなように誤りである。

(1)  号外は「新聞紙」そのものではない。あくまで臨時の刊行物であり、特殊な発行の必要性に基いて発行される文書である。又新聞の号外はその体裁において本紙と異なつていることが多く、しかも読み易い手頃の大きさであるのが常である。その内容においても速報やトピツク記事が掲載される場合が多い、このような特殊性から、文書として人の注目を引き人に訴える力は本紙のそれとは比すべくもない位大きい。従つて、それが選挙運動に悪用される場合には宣伝効果の特に大きなものとして選挙の公正を害する度合も本紙のそれに比しはるかに深いと思われる。更に一般の選挙運動文書と比較してみても、一応新聞紙の号外の外観を呈しているだけに一層有権者に及ぼす悪影響も大きなものがあるといわなければならない。

(2)  他面「新聞紙」の一般的概念としてさきに掲げた反覆性、有償性の観点から見ても、新聞紙の号外は新聞紙中では特異なものといえる。すなわち、号外それ自体には短かい期間を切つての反覆性がない。「新聞紙」の概念の中に反覆性を入れるのは反覆して発行されることによつて一種の安定性又は通常性が確保されるという実質的考慮によるものであつて号外はこの意味での安定性、通常性に乏しい本質を持つ。また、本紙と同じ意味、同じ程度の有償性を持たない。従来からの本紙の購読者への無料頒布はその費用が本紙の購読料中より支出されるという意味で結局は有償性を認めることが出来るかも知れないが、号外の特質から、それ以外の者に広く頒布する場合が多く、その分については到底有償性は認められないこととなるのである。

(3)  新聞紙の号外には右のように著しい特異性があつて選挙の公正に及ぼす影響も少しとしないものである以上、その新聞紙性の判定については、むしろ本紙以上に慎重でなければならないことは当然であろう。特に選挙に関し新聞紙であるかどうかが問題になるのは号外名義の文書である場合がきわめて多いことも注目すべきである。このような号外の特質とその選挙に際しての利用状況を基礎にその新聞紙性を判断するには、とりわけ発行状況、頒布状況等一切の事情の客観的観察、更にはそれらから推認される発行頒布者の意図乃至目的を綜合的に判断して決定しなければならない。就中重視すべき点は本紙との関連であつて、本紙の記載内容及びその一般的発行事情との比較検討を行い、殊に号外として発行すべき必要性乃至目的についての究明がなされなければならないであろう。このような綜合判断の結果、私器的色彩すなわち宣伝文書性が濃厚であつて、本紙の公器たる使命を分担する実質面が殆んどないと認められ、しかも積極的に号外の外観を利用して選挙運動の具に供する意図乃至目的が認められるものについては新聞紙性を否定すべきである。さきにも指摘したように号外が選挙の公正を害するおそれの大きい形態の文書である特質から考えても「新聞紙」の「号外」を仮装し「報道評論」に名を藉りるものは特に厳格に判定して法の保護からはずすのが相当である。

(4)  右に明らかにした号外名義の文書の「新聞紙」性及びその内容の「報道評論」性の判定は、文書自体の外観の観察に止まらず、広く発行事情の一切について綜合判断しなければならないとする見解は、従来の判例の見解によつても明らかに支持されていると考える。すなわち昭和二十九年五月十八日大阪高裁判決(最高刑判要旨集九巻一〇七号七〇八頁)では号外の用語外形及び内容の全体についての観察の外に特に号外を発行して速報する要急性の有無を併せて考察しており、更に昭和三十四年十二月四日最高裁第二小法廷決定(最高判集第一三巻一二号三一五四頁)では、号外の発行主体の異なること、文書自体の内容が明らかに特定候補者の当選を目的とするものであること、配布対象、方法が異常であること、本紙と体裁の異ること、無償であること等の一切の発行事情を綜合判断して新聞紙性を否定する第一審、二審の判断を支持している。もつとも両判決(決定)とも本件文書とはかなり形態を異にする文書について判示したものではあるけれども、共に綜合判断の合理性を示唆しているものとして注目される。

三、最後に、右に詳説したところに従つて、本件「日本議会新聞号外」と題する文書の新聞紙性についての検察官の見解を述べることとする。

昭和三十三年四月三日乃至六日頃の衆議院解散近しとの世論が高かつた時期に、東京第一区内の街頭で従来殆んど名も聞いたこともない新聞の号外名義の文書を、無償で日本議会新聞の社員又は号外屋から手交され、或いは飛行機で撤布されたのを自から拾つて読んだ健全な常識を有する第三者は、その文書の目的効用をいかに判断したであろうか。彼等は、その記載内容が解散決定とのニユースと並んで田中栄一の写真を大きく掲げるものであり、更に田中が第一区より安井知事の身替りで出馬すると決定した旨を記載し且つ田中の経歴を掲げ都政のため活躍するものと早くも各方面から期待されていると結んであることと、入手した方法が異常であつたこと等から正に右文書は田中栄一の当選を目的とした宣伝文書に外ならないと判断したに相違ない。

一方右文書が本紙の発行部数の二千乃至五千部とは段ちがいの十万部作成され頒布されたこと、従来号外を発行した事例のないこと、四月三日付本紙と対照して検討すると本紙に既に出た記事を号外にしたもので速報性も認められないこと、田中栄一に関する記事の取り上げ方が本紙とは著しく異なること、頒布先が第一区内に限り而も方法は極めて異常であること、等の外形的発行事情の特異性が明らかであつて、本紙との同一性の薄いことも明瞭であるばかりでなく、原判決も認定するようにこの文書は被告人柳原等三名が共謀のうえ田中に当選を得しめる目的で殊更に号外名義を利用して発行頒布したものであり、しかも解散云々の記事は報道評論の外形を仮装するためのみの目的で記載したものであることも認め得るのである(尚原判決は、本件号外の発行には発足間もない議会新聞の宣伝目的もあつたとの被告人等の主張を採り上げているが、かかる主張は柳原等の弁解にすぎないものとも考えられ、かりにそのような目的が一部にあつたとしても、それは私的宣伝の目的にすぎないのであつて右認定を左右するに足りない。)。

かくて以上の諸事情を綜合して判断すれば、本件文書はまさに社会の公器たる実質の認められないものであつて、而も積極的に「新聞紙」の「報道評論」の形を悪用した文書であると解され、到底本紙と同様の保護を受けるに価しないものと断ぜざるをえない。従つて本件文書については法第百四十八条第一項の適用はなく、法第百四十二条の法定外文書と認めるべきである。被告人柳原等三名の右文書頒布の所為については当然同条及び法第二百四十三条第三号、第百二十九条、第二百三十九条第一号を適用すべきであるが、これらの規定を適用せず法第百四十八条第二項、第二百四十三条第六号により処断した原判決は、ひつきよう前記各公職選挙法の規定特に第百四十八条の解釈を誤まつた結果本件文書の性質を誤認し適用すべき法規を適用しなかつたものである。而して法定刑を同じくするとはいえ右の誤によつて全く別異の犯罪事実を認定したものであるからその誤が判決に影響を及ぼすことも明らかであり原判決はこの点において破棄を免れない。

(その他の控訴趣意は省略する。)

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